雑談
メアリーの部屋
メアリーは聡明な科学者であるが、なんらかの事情により、白黒の部屋から白黒のテレビ画面を通してのみ世界を調査させられている。彼女の専門は視覚に関する神経生理学である。
次のように想定してみよう。彼女は我々が熟したトマトや空を見るときに生じる物理的過程に関して得られる全ての物理情報を手にしており、また「赤い」や「青い」という言葉の使い方も知っている。例えば、空からの特定の波長の光の集合が網膜を刺激するということを知っており、またそれによって神経中枢を通じて声帯が収縮し、肺から空気が押し出されることで「空は青い」という文が発声される、ということをすでに知っているのである。
(中略)さて、彼女が白黒の部屋から解放されたり、テレビがカラーになったとき、何が起こるだろうか。彼女はなにかを学ぶだろうか?
この思考実験のことはだいぶ前から知っていました。しかし、特に深く考えることはありませんでした。
しかしある日、友人が資料をまとめる際に「折れ線グラフの色がちゃんと違う色になっているか見てくれ」と言ってきました。そのとき彼が色覚異常を持っていると初めて知り、それでふとこの問題を思い出したというわけです。
現実の話
私はここで哲学の話をするつもりはありません。
それができるほど精通もしていません。
このメアリーの部屋の主張は、「当然メアリーは新しい何かを学ぶ」ので、経験に基づく個々の感覚というものが存在(クオリア)がするということです。そして更に「すべての正しい知識が物理的事実についての知識である」という考え方を批判します。メアリーが新しいことを学ぶのであれば、すべての物理的知識を有してもなお、それでは説明できない何かを学んだことになるからです。
一方、その新しい何かを学んだことすらも実は脳内で生じる物理現象で説明でき、それすらもメアリーが知っていた(物理的知識をすべて有していた)ということであれば、新しい何かを学ぶことがないという反論もあります。いわば、クオリアすら物理的何らかの現象であり、それもメアリーは理解していたということです。
ここで大事なのは、クオリアがあるか否か、あったとしてそれすらも物理学で説明できるのか否か、いずれにしてもメアリーのような完璧な知識は獲得し得ないということです。
そんなハイレベルな話でなくとも、物理学の最先端なんて私には理解できませんし、数学だって自分が触るレベルのことしか知りません(知ってると思ってるだけで穴だらけでしょうし)。
要するに現実の人間は物理的知識すら不完全です。
手を動かすことも大事
そうであれば、何かを経験するというのは有意義なはずです。
分かったつもりになって知識があると思い込んでいるときに限って、実際に経験をするとハッとすることがあるはずです。
本を読んで完璧に理解したつもりになっていても、手を動かしたときに初めて理解不足だったことに気がつくこともあるでしょう。私はメアリーではないので、何かを経験したときに初めて物理的知識自体が不足していることに気が付くことがよくあります。物理的理解が伴っているという前提がそもそも通常ではありえません。
経験をすることで新たなことを学べるのがクオリアの仕業なのか、単に物理的問題に直面するのが初めてだったのか、本を読んでる時に勘違いをしていたのか、どれかは分かりませんが、どれにしても経験で学ぶ事は、メアリー以外の人間にはたくさんあると思います。
実装してエラーを吐きまくるプログラム。
ペーパーテストで気づく理解不足。
動かしてみて納得する機械学習手法。
とにかく手を動かしてみるというのもかなり大事だということです。
自分に耳の痛い話だな。